栃木県那須郡那須町
『殺生石』
殺生石は、800年前に日本に渡来した九尾の狐が退治されて石に姿を変えたもので
毒気を放ち、人や獣を殺してしまうことからその名がつけられたとされる伝説の場所です。
また、松尾芭蕉が立ち寄り、奥の細道にも登場するこの場所には句碑も建てられています😊
こちらのブログでは、殺生石の伝説や、その前に立つ千体地蔵、そして奥の細道との関連などについてご紹介させていただきます。
[aside type=”boader”]【基本情報】
住所 | 栃木県那須郡那須町湯本 |
電話番号 (那須町観光協会) |
0287-76-2619 |
駐車場 | 無料駐車場があります |
アクセス | マップを開く |
↓駐車場↓
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九尾の狐と殺生石の伝説
ここ殺生石は、あの誰もが知る大妖怪、九尾の狐がその最後を迎えたとされる伝説の地。
この物語の始まりは、藻女という少女が18で宮中に仕えるところから始まります。
後に鳥羽上皇に仕える女官となった藻女は、その美貌と博識から鳥羽上皇の寵姫となりますが
この頃から、次第に上皇が原因不明の病に伏せるようになってしまいました。
その原因を見破ったのが、鳥羽上皇付きの陰陽師であった安倍泰成であり
藻女の正体は、中国から渡来した九尾の狐で、上皇を呪っていたのです。
正体を暴かれた九尾の狐は栃木の那須へと逃亡しますが、場所を突き止めた鳥羽上皇は討伐軍を編成し、軍勢を那須野へと派遣しました。
↓殺生石へと続く道↓
九尾の狐の妖術によって多くの戦力を失い、一度は失敗に終わったものの、次第に九尾の狐を追い詰め見事討伐に成功します。
しかし物語はまだ終わりません。
毒石になった九尾の狐
安部泰成を軍師とする討伐軍によって、ついに打ち倒された九尾の狐。
しかし伝説によると、九尾の狐はその後毒石となり、獣や人の命を奪い続けました。
この伝説に由来して名付けられたのが、ここ那須の殺生石であり、生き物の命を奪うこの石の存在を人々は恐れました。
その話を聞きつけ殺生石に訪れたのが、現在の那須烏山市にある泉渓寺の名僧、源翁和尚。
↓紅葉の名所・泉渓寺↓
源翁和尚が毒石に大乗経を読み上げたところ、一筋の白煙とともに九尾の姿が現れ、石は三つに割れて飛び散りました。
そして、その時に砕けて残ったものが、現在この史跡に転がる石であり
↓殺生石↓
どれか一つではなく、草木の生えていないエリア全体を殺生石と呼ぶそうです。
九尾の狐は那須からは姿をくらましたものの、かつては中国の妲己や褒姒、インドの華陽夫人にも化けたとされる伝説の妖怪。
そのためもしかすると、今もなおどこかに身を潜めているのかもしれません。
飛散した殺生石
源翁和尚の大乗経を聞き、三つに割れて飛び散ったと伝えられている殺生石。
残りの二つの石は、福島県の殺生石稲荷神社、岡山県の化生寺にて保管されています。
美作高田の殺生石
— 狐小路ヌヱ (@kitsunetsuki0w0) December 18, 2022
岡山県真庭市勝山
九尾の狐の変化した殺生石を玄翁和尚が読経して打つと三つに割れて日本三高田に飛散。その内の一つが美作高田に祀られています。
殺生石から出現した十一面観世音を御本尊とする化生寺で、木彫りの九尾の狐を侍らせて。 pic.twitter.com/Zcns038vhM
九尾の狐縁の地を巡りたい方は、是非殺生石稲荷神社や化生寺に足を運んでみてください😊
千体地蔵・盲蛇石・教伝地獄
殺生石のそばには、殺生石以外にも盲蛇石、教伝地獄、千体地蔵といった見所があります。
盲蛇石
盲蛇石は、その昔五左衛門という男が、冬を越せるよう盲目の蛇を助けたところ、翌年の春その蛇を助けた場所には輝く湯の花があったため
感謝の意を込め、蛇の首に似た石を盲蛇石と呼び大切にしたという言い伝えのある巨石です。
湯の花とは温泉に含まれる成分が結晶化したもので、そばには湯の花採取場跡があります。
↓湯の花採取場跡↓
教伝地獄
その昔、もとより素行が悪く、母の好意を無下にしてこの殺生石の地に訪れた教傅という住職が
突如としてその場から噴き出した火炎熱湯によって、その下半身を焼かれながら
”おれは地獄に墜ちていく”という言葉を残し亡くなたという言い伝えがあります。
その後、供養の為に地蔵を建立。
この場所は教伝地獄と呼ばれることとなり”親不孝の戒め”として参拝する者が後を絶たなかったと言い伝えられています。
千体地蔵
駐車場から殺生石までの道中、ひときわ目を引くのがこちらの千体地蔵。
平安を祈るため、一つ一つのお地蔵様の手が大きく作られているのが特徴的です。
実際には千体に達していないのですが、昭和53年から制作が始まり、現在その数は800余体。
今もなお増え続けているのですが、なんとこの全てのお地蔵様が、たった一人の手作業によって作られているというから驚きです。
奥の細道と殺生石
殺生石の前にある松尾芭蕉の句碑
奥の細道とは、江戸時代前期の俳人として知られる松尾芭蕉による紀行であり
江戸から始まった芭蕉の旅は、日光を経て、殺生石のある那須野へと続きます。
実際に訪れたのは1689年の6月6日のことで、弟子の河合曾良とともに訪れたようです😊
奥の細道には、殺生石に関する説明として以下のように記されています。
殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
直訳すると
殺生石は温泉が噴き出る山の陰にあった。石の毒気はいまだに収まらず、蜂や蝶の類が砂の色が見えないほど重なり合って死んでいる。
となります。
なお、伝説によれば、九尾の毒気によって生物の命を奪っていると考えられていましたが
実際は、那須特有の火山ガスの影響よって、生物の命が奪われていたそううです。
今も殺生石周辺では硫黄の香りがしますが、以前は今にも増して火山ガスの噴出が盛んで、付近の温度も80度~90度近くあったそうです。
また、殺生石の前には松尾芭蕉の句碑があり、以下の俳句が記されています。
石の香や夏草赤く露暑し
この”石”とは殺生石のことで
石は硫黄の香り、緑したたるはずの夏草が赤く枯れ、涼しいはずの露が熱く沸騰している。
と詠んでいます。
九尾の伝説が残る松尾芭蕉ゆかりの地、気になる方は是非足を運んでみてください😊
最後まで読んで頂きありがとうございました。