栃木県下都賀郡壬生町
『精忠神社』
1712年から明治維新まで、代々壬生城主を務めた鳥居家。ここ壬生町の精忠神社は、その祖である鳥居元忠を祀る神社です。
鳥居元忠は徳川家康の忠臣として仕え、最後は家康の居城である伏見城を石田三成の軍勢から10日間以上に渡り守り、落城の際にはその場にいた約300名とともに自刃。
家康はこの元忠公の忠義を賞賛し、血のついた畳を江戸城の伏見櫓の階上におき、登城の諸大名に元忠公の精忠を偲ばせたといわれています。
そして現在、その畳は精忠神社の畳塚に納められ、記念碑が建てられています。
こちらのブログでは、そんな精忠神社の歴史、御朱印、境内をご紹介させて頂きます。
[aside type=”boader”]【基本情報】
住所 | 栃木県下都賀郡壬生町本丸1-9-13 |
電話番号 (雄琴神社) |
0282-82-0430 |
駐車場 | 壬生町城址公園の駐車場をご利用ください |
アクセス | マップを開く |
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精忠神社の歴史
壬生町の精忠神社は、壬生藩鳥居家5代当主で、1712年から壬生城主を務めた鳥居忠英が城内東北に鳥居元忠を祀ったのがはじまりです。
その後1799年になって、神道界において圧倒的な権力を持っていた神紙菅領吉田家より精忠霊神の神号を受け、精忠神社となり今に至ります。
壬生城の城主は、1590年の小田原征伐の際に壬生氏が滅んだ後は何度も交代しており
鳥居氏は1712年に国替えによりこの壬生藩にやってきて城主を務めました。
壬生城自体は1469年から1486年まで続く文明年間に築城されたものとされ
城主は壬生氏、結城秀康、日根野吉明、阿部忠秋、三浦正次、松平輝貞、加藤明英と変わり
加藤氏の後任として、元忠の子孫である鳥居家5代鳥居忠英が城主を務めてからは
忠英、忠瞭、忠意、忠燾、忠威、忠挙、忠宝、忠文と、鳥居家8代の居城として用いられました。
鳥居元忠と徳川家康
徳川家康像
この精忠神社にて祀られている鳥居元忠は、徳川家康がまだ竹千代と名乗っていた10歳の頃からの旧知の仲として知られる人物。
家康が今川家へ人質として差し出された際にも近習として仕えており、家康より3つ年上。いわば、家康にとって親友とも呼べる絶大な信頼を寄せていた人物でした。
家康と言えば、石田三成の軍勢と戦った関ケ原の戦いがあまりに有名ですが、この戦いの前、家康は石田三成の軍勢を挙兵させるためにあえて上杉景勝の討伐に向かいます。
家康が伏見城を出て上杉討伐に向かえば、石田三成に真っ先に攻撃されるのは伏見城。もしそうなれば落城は明らかでしたが、ここで城の守りを命じられたのが鳥居元忠でした。
徳川家康は鳥居元忠に城の守りを命じた夜、二人っきりで酒を酌み交わし、元忠が退出する際には涙を流したと言います。
幼少期の苦労を共にした元忠に、いわば自分の為に死んでくれという頼みをし、それを引き受けた元忠。この夜が今生の別れとなりました。
家康の思惑通り、伏見城を攻めた石田三成の軍勢は約4万、それにたいして鳥居元忠側は2千名弱しかいなかったものの、元忠側の奮闘により落城には10日間以上もの期間を要しました。
この伏見城の戦いが石田三成の予想より長引いたことが、美濃・伊勢方面に対する西軍進出の遅れる要因となったとも言われています。
鳥居元忠の自刃と畳塚
畳塚
石田三成率いる西軍に対して奮闘したものの、ついに落城を迎える際、鳥居元忠はその時城に残っていた約300名とともに自刃。
関ヶ原の戦いに勝利した家康が、この自刃した元忠達の姿を目にするのは、それから約2か月も後のことでした。
家康は元忠の血に染まった畳を江戸城の伏見櫓の階上におき、登城する諸大名に元忠の忠義を偲ばせたといいます。
明治に入り江戸城が明け渡されたため、この畳は元忠とゆかりの深い精忠神社に納められ、畳塚と称えその上に記念碑が建立されました。
鳥居元忠の命日である旧暦8月1日の例祭においては、昭和初期までは勇壮な武者行列が行なわれていたそうです。
御朱印
精忠神社の御朱印は、同じ壬生町にある雄琴神社の社務所にていただくことが出来ます。
下野大師から壬生町に鎮座する、精忠神社に初参拝してきました🚗💨御朱印は雄琴神社で頂けると言うので頂いて来ました✨雄琴神社では季節限定の御朱印立皇嗣の礼の御朱印を頂いて来ました✨ #壬生町精忠神社 #雄琴神社 pic.twitter.com/HHvDH8k8YB
— お稲荷さん (@CKNsAOHASFpJ6zi) November 19, 2020
雄琴神社は壬生町の総氏神として崇敬されている神社であり、壬生町では最も大きな神社です。
境内紹介
精忠神社の境内の様子を紹介します。
精忠神社は壬生町城址公園のそばにありますので、駐車場はそちらをご利用ください。
この鳥居をくぐり、真っすぐにのびる参道を進むと社殿の場所へと到着します。
この精忠神社は1849年に現地へ遷されており、社殿はその際に改められたものです。
二の鳥居のそばに二基の石灯籠があり、その先六基の石灯籠と狛犬の奥に拝殿・本殿があります。
本殿を見ながら、社殿の後ろ側へとまわると
鳥居元忠の血に染まった畳が納められているという、畳塚があります。
とてもすっきりとした印象の神社でしたが、歴史好きにはたまらない神社かと思います。
かつて徳川家康が信頼を寄せていた、鳥居元忠ゆかりの精忠神社。
気になる方は是非足を運んでみてください。
最後まで読んで頂きありがとうございました。