芳朝寺|森田城|那須烏山市|大田原氏累代の墓所がある菩提寺

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栃木県那須烏山市

芳朝寺

かつて難攻不落の竜崖城といわれた森田城跡のそばにあり、那須与一の兄である那須光隆の開基と伝えられる古刹です。

那須与一は1185年の屋島の戦いでも活躍した弓の名手として知られる人物で、那須与一の十人の兄の長兄が那須光隆です😊

こちらのブログでは、芳朝寺の歴史や森田城との関連についてご紹介させて頂きます。

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【基本情報】

住所 栃木県那須烏山市森田389
駐車場
アクセス マップを開く

↓駐車場↓

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目次

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芳朝寺の歴史

平安時代の武将・那須資隆の長男にして那須与一の兄である那須光隆の開基とされ、今からおよそ800年ほど前に創建されたお寺です。

光隆は法名を大雲芳朝居士と号したことから、寺院名は大雲山光隆院芳朝寺いいます。

那須光隆は1187年に森田の地を分知され、森田城を築いて森田氏を称するようになり、その森田氏の菩提寺として芳朝寺が建立されました😊

はじめは森田字石原に建てられたそうですが、森田氏が没落して大田原氏領となってからは大田原氏の菩提寺となり、1703年の大田原清勝の時に現地へと移転されたそうです。

境内には今なお、森田大田原氏初代増清をはじめ、大田原氏累代の墓碑が並んでいます。

芳朝寺の境内では、カタクリ、山ツツジ、蓮の花など、季節ごとに色々な花が咲くそうです。

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森田城と森田氏の歴史

森田城を築いた森田光隆はその後子宝に恵まれず、弟泰隆の子を養子に迎えたものの

そちらにも子ができなかったことから、森田氏はこの二代で一度断絶しました。

その後時は流れ1546年、烏山城主那須高資の弟資胤が森田の地を領し、森田弾左衛門と称して森田氏を再興して改めて森田城主となります。

しかし、烏山城主の那須高資は、その後家臣である千本資俊に誘殺されてしまったことから、資胤が帰参して那須氏の家督を継ぐこととなり

今度は、当時福原氏の養子となっていた資胤の弟資邦が森田城主となります。

森田城が完全に廃城となってしまったのは、その子である森田資信の代のことで

当時の烏山城主那須資晴が、小田原征伐に参陣しなかったことから豊臣秀吉の怒りを買い

1590年に宗家である那須氏は改易により没落し、森田氏もまた没落してしまったことから、森田城は廃城となってしまいました。

その後1600年、大田原城主綱清の子である増清が小塙に森田陣屋を設けて森田大田原氏初代となり、以降明治まで存続したそうです。

御朱印

芳朝寺の御朱印です。

御朱印を確実に頂きたい方は、事前にお寺へお問い合わせして頂くことをおすすめ致します。

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境内紹介

芳朝寺は曹洞宗を宗派とする寺院で、烏山線のある方向から広い田園風景を走り、少し山の中に入った場所にあります。

山門をくぐるとその正面に本堂があり、こちらには寄木造による平安時代の作とされる薬師如来坐像が安置されています😊

こちらの本堂の東側には、森田大田原氏の墓所へと続く山道の入り口があり、墓所を越えた更に先に、森田城跡があります。

また、こちらの芳朝寺では、予約をすればで座禅体験を受けることが出来るそうで、住職様に指導をして頂けるそうです。

豊かな自然に囲まれ、心安らぐとても雰囲気の良いお寺ですので、那須烏山市へ来られる際には是非訪れてみてはいかがでしょうか😊

最後まで読んで頂きありがとうございました。

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